HOME

 

「ロビンソン漂流記」から見る著者デフォーの経済思想とその背景にある17世紀末〜18世紀前半のイギリス経済事情

木場 由紀子

経済学部経済学科3年 吉田ゼミ 17980167

2000.7.

 

 

 

1.このレポートを書くにあたって

 『ロビンソン漂流記』という作品は、誰しもが小さい頃から、読んだことはなくても本の名前は聞いたことがあり、何となく無人島に漂着した男の話だということは知っているように思う。その『ロビンソン漂流記』を、大学に入り、経済学部の講義で度々耳にする機会があるとは思ってもみなかった。

 マルクスは『資本論』の「商品物心性とその秘密」のところで、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という論文のなかで、この『ロビンソン漂流記』に触れ、経済学的に理論モデルとして高い評価をしているのだ。

 私は、このような『ロビンソン漂流記』を今一度経済的な視点を持って、読み直したいと思った。ロビンソン・クルーソーはたった1人で無人島に漂着し、すべてを自分の手で作り出して、28年間を過ごした.その28年間でロビンソンという1人の男は、どのように生産・消費を行ない、生活したのだろうか。また、この物語の著者、ダニエル・デフォーは、どのような経済思想を持ってこの作品を書いたのだろうか。これらの疑問について、その当時、17世紀末〜18世紀前半イギリスの社会的背景をふまえて考察し、レポートにまとめたい。

 

 

 

2.著者デフォーの生涯と17世紀末〜18世紀前半のイギリス経済事情

(1)著者デフォーについて

初めに、『ロビンソン漂流記』の著者であるデフォについて、簡単にまとめておきたい。

 ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)は1660年頃にロンドンの中流商人の子として生まれ、1731年に亡くなっている。デフォーは、作家であり、非常に有能な政治経済記者でもあり、他にも宗教家、政治家など、実にいろいろな肩書きを持つ、活動家であった。特に政治には積極的に関係し、名誉革命のあとウィリアム3世側に立って活躍した。また、デフォーは、トーリー党と中産階級上層の利害を代表するウィッグ党の間を揺れ動き、結局彼は、どちらかというと超党派、中庸派であったようだ。そして政府論者でありながら、不偏不党、独立独歩の精神を維持し、政府の批判まで行っている。

 作家としては、『ロビンソン漂流記』の他にも500冊以上の著書があり、実にさまざまなジャンルの本を書いている。経営学に関する物から、経済地理学の書ともいえそうな旅行案内、評論、小説などが挙げられる。また『ロビンソン漂流記』は、彼が59歳のときの作品である。こうしてみてみると、デフォーという人は、いろいろなことに興味を持って実行に移す積極的な活動家で、器用な人であった。

(*参考文献 A.p305〜309、C.p22〜24、D.p56〜101)

 

(2)   17世紀末〜18世紀前半のイギリス概観

次に、デフォーの活躍していた頃のイギリス経済事情の概観を、まとめておきたい。デフォーの時代である1700年〜1740年代のイギリスは、1760年代から始まる「産業革命」の直前であり、いわゆる「産業革命前夜」の前半をなす時代であった。この時代には1720年の金融恐慌を頂点に、1665年の疫病、1666年ロンドン大火1709〜10年、1726年、1739〜40年の凶作などが起こり、一般には「不況の時代」、「沈滞の時代」と考えられがちで、また時代的には17世紀の政治的革命の時代から18世紀末の産業革命という画期的時代に至るまでの単なる「過渡期」にすぎないと見られがちである。しかし、実際はそうではなく、新経済体制への立派な「転換期」であった。後に始まる産業革命において世界をリードするべきイギリスの素質・地盤がこの期間において地味ではあるが、着実に、堅実に蓄積されつつあった。デフォーは、『イギリス経済の構想(A Plan of the English Commerce 、1728年−以下Planと 省略)』の中で、18世紀初頭におけるイギリス経済構造の持つ3つの著しい変化を独特の洞察力をもって明確に描写している。これらの特徴は、後のイギリスの飛躍的経済成長における前提条件となった。これに基づき、この時代にみられたイギリス経済構造の重要な変化のうち3つをまとめる。

 

@イギリス工業構造の多角化・多元化

 イギリスでは、過去3世紀に渡って「基幹工業」として毛織物工業が独占を維持していた。ところが、この時代に入って毛織物工業の独占体制は破れ、同工業内部においても高価で重い紡毛製品から、軽くて安価な南ヨーロッパ向けの「新織物」へと生産の重点が移行し、新しい繊維工業が各地に勃興した。例えば、キャラコ捺染業、綿織物工業、絹織物工業、麻織物工業などが挙げられる。その上重工業方面においても、伝統的な鉄、金属工業の他に製銅工業、真鍮工業、ブリキ工業、造船工業などが発展した。さらに、製陶工業、時計製造業、ガラス工業、石鹸製造業、製糖工業、醸造・乾溜工業、帽子工業、製紙工業などのさまざまな工業が、ミドランズ、ランカシャー、南ウェールズなどに「新興工業」として勃興した。こうして従来、農業においては牧羊業を中心に原料羊毛を生産し、工業においては羊毛に加工して毛織物を製造し、貿易においてこれを特許貿易会社を通じて海外に輸出するという、全産業を通じての毛織物工業一辺倒は18世紀初頭を画期として明確に打破され、その結果イギリス工業は多元化された。

 

A生産に対する「消費」の重視

 デフォーは『Plan』において、イギリス経済の特徴として「国内生産物と外国輸入品両方の国内における巨大な消費」を挙げ、具体的にくわしく説明している。イギリスでは、ブルジョワ階級の台頭と共に下層の勤労者大衆に至るまで生活水準は向上した。イギリス労働者の賃金はフランス労働者のそれと比べると2倍以上の高賃金であった。このイギリス勤労大衆の高賃金による豊かな消費は、上流・中流階級の奢侈的(ぜいたくな)消費と相まって、巨大な国内市場を創造したのである。

 当時のイギリス国内市場の大きさは外国市場の実に6〜20倍に上ると言われ、「全世界最大のもの」であった。デフォーは『Plan』の中で次のように言っている。「イギリス自らの生産物とイギリスに輸出される外国産物の国内消費は非常に巨大で、またイギリスの取引がこのように異常なまでに巨額に達しえたのは、国民の中の2階級、即ち製造業者と小売店主がその労働と勤勉とから作り出す利得によるものであり、さらに無数ともいうべき彼らの数に基づくのである。(途中、省略)…彼らの数は何百、何千、あるいは何十万ではなく実に何百万なのである。この大衆によって取引のあらゆる歯車は動かされ、陸海の製品、産物が作られ、加工され、外国市場向けに仕上げられる。彼らの生活はその大きい収入によって支えられているが、他方国全体は彼らの巨大な人口によって支えられている。即ち、その賃金によって彼らは豊かに暮らし、自由な生活によって、国内外の生産物に対する国内消費はこのように大量にまで高められたのである。」

 このような巨大な国内市場は生産に非常な刺激を与え、生産を量的に拡大したばかりではなく質的にも高め、高級品が喜ばれる状態となった。奢侈を愛する中産階級の姿はこうして現れた。馬車、促成野菜、白い子牛肉などの使用が始められ、ビールに代り紅茶、コーヒー、ココアなどの常用は、砂糖輸入の増加と共に下層階級にまで浸透、普及した。こうして、「奢侈品の大衆化」が行われ、国内市場を拡大させ、ひいては生産に刺激を与え、商業における卸売市場組織の整備と「大量取引」方法の採用と共に、産業革命の前提条件を創造した。このように、産業革命直前のこの時代は一種の「レジャーブーム」時代であり、大衆による大量消費の時代であった。

 ここにおいて、たびたび出てくる「中産階級」の人々について説明を補足したい。デフォーの経済思想を考察する上で、この「中産者層」は最も重要な言葉であるからだ。中産者層とは貴族・ジェントルマンなど「上流者層」とも、また手から口への貧しい「労働者層」とも区別される新興の社会層であった。その大多数は商工業者(商業資本家か産業資本家)だったが、職人に近い小規模な小売店主や小規模な製造業者から富裕な貿易商人や銀行家に至るまで経営の規模も業態も多様だった。飲食業・娯楽業、専門職・芸術職、その他さまざまなサービス業に仕える人もこの中産者層である。このように多彩ではあったが、そこには中産者としての「同質性」も存在した。彼らは、「資本の人」で「利潤・蓄積・向上」に関心を持ち、「絶えざる勤勉と自己向上の意欲」、「自己向上的で自律的な態度」、「利潤の獲得と自己向上のための勤勉な努力」などといった世俗内的禁欲のエートスを職業倫理としていた。

 こうした中産者層が社会的に確立した決定的な要因は、この「勤勉と自己向上の意欲」に裏打ちされた中産層の「自己確信」であり、その結果「実業」の評価が高まり、ジェントルマンや労働大衆に対する中産者層の独自性・優位性が社会的に認知されたのである。

(*この中産者層についての説明はE.p27〜41を参考にした。)

 

Bイギリス貿易構造の一大変革

 17世紀末〜18世紀初頭にかけてのイギリス貿易の変革には、4つの特徴が見られる。まず、変革の第一は、再輸出品の大激増である。再輸出品は1640年代には総輸出額のわずか5〜6%しか占めていなかったが、1700,1720年の保護法に影響を受けて、1722〜1724年には35%に大激増を遂げた。その3分の2以上がアメリカ植民地と東インドからの特産物で形成されていた。東インドについては彩色キャラコが、アメリカ植民地については砂糖が挙げられる。

 第2に、輸出額の中に占める毛織物の比重が低下したことである。これは生産構造の変化に対応したものであった。毛織物は1663〜1669年総輸出額の74%を占めていたが、1699〜1701年には47.4%、1722〜1724年にはわずか38.5%に減少し、1750年には45.9%へと次第に比重が低下している。この原因の1つは、フランスを始めドイツ、ポーランド、スウェ−デン、さらに1750年代にはスペインまで自国の毛織物工業の保護育成政策を採用したからである。他の原因としてデフォーは『Plan』の中で「消費面における時代の慣習、流行、嗜好が移り趣くままに、毛織物の1つの種類が衰え、他の種類が増加した結果である」と説明している。

 第3は、イギリス貿易中に占めるヨーロッパの比重が低下したことと、新大陸アメリカ植民地の重要性が増大したことである。1663〜1669年に輸出貿易の約85%を占めていたヨーロッパが、1722〜1724年になると62.3%に減少し、さらに輸入額にいたっては47.4%に大幅に低下した。これとは逆にアメリカ植民地は、輸入については、1699〜1701年には19%、1722〜1724年には、24.8%に増加し、アメリカ独立戦争直前には母国の輸入品の実に3分の1以上を占めるに至った。このようなアメリカ植民地と東インドからの輸入額を合わせると1722〜1724年にはイギリス総輸入額の39.1%、即ち4割弱に当たっている。

 最後に第4として、1680年以後早期に訪れた農業革命によって穀物の生産高が上昇しその結果1688年穀物助成法に促進され1750年代には、小麦はイギリス輸出品の第2位に上昇し、総輸出額の実に19.6%を占めるに至ったことが挙げられる。デフォーは「穀物はイギリスから主としてオランダへ輸出される。もっとも真に穀物国と呼び得るイギリスとしては市場が発見される限り、どこへでも輸出し得るように常に準備している」と『Plan』の中で述べている。小麦輸出量は1660〜1700年代頭に60倍、1700〜1760年間に再び2倍以上に増加し、イギリスは一時北西ヨーロッパにおける主要小麦輸出国となり、1697〜1765年間には総量にして約3300万クォーターの小麦が大陸に輸出された。その後、1770年代以降イギリスは小麦輸入国に転ずるが、産業革命前夜においてはイギリス貿易上における小麦の存在は注目するべきであり、ロンドンの利子率が1651年の6%から、1757年の3%にまで低下し得たのは小麦輸出による潤沢な資本の存在によるものが大きい。

以上、@〜Bまで産業革命前夜のイギリスを見てきたが、このような時代を経て1760年代からついに世界最初の産業革命が始まり、イギリスは「世界の工場」となる。その産業革命を発展させた人々の中心が「イギリス社会の背骨」としてデフォーの時代に成立、展開した「中産者層」であったのだ。この中産者層が近代における合理的産業経営の生みの親であり、彼らの理念や行動様式はイギリス労働者の歴史を語るうえで重要なものである。

(*参考文献 Cp59〜69、Dp13〜55、Ep27〜73)

 

 

 

3.「ロビンソン漂流記」とその社会的背景にあるイギリス経済事情との比較分析

(1)   土地の囲い込みについて

ロビンソンは孤島にただ1人漂着して、最初はやれやれ命だけは助かったと喜ぶが、次第にこれは大変なことになったと分かってくる。しかし、彼はくじけない。そして、1人でも生きぬいていこうと現実をしっかりと受け止め、前向きに生活の筋道を作り上げていく。難破船からいろいろな物を見つけてきては、それを孤島のさまざまな自然条件とうまく組み合わせて、生き続けていくための最低限の生活条件を整えていく。まず彼は、住居を作る。「現在いる場所が定住するのに向かないことがわかった(@.p83)」 それから、彼は、「第1は健康と清水。第2は、太陽の暑気が避けられること。第3は、猛獣にしろ蛮人にしろそれらの兇悪な襲撃から身を守りうること。第4は海に見えるところであること。…  こういう条件にぴったり当てはまる場所を探したわけだが私はある小高い丘の中腹にちょっとした平地を見つけた。(@.p83)」そして、その平らな緑の草地のうえ、斜面の洞穴のすぐ前にテントをはった。そのとき、ロビンソンは今問題にしたい土地の囲いこみを行うのである。「テントをはる前に洞穴の前方に半円形の線を描いた。それは洞穴の岩を中心  に半径10ヤードのもので、したがってその両端を計れば直径20ヤード になった。この半円形の線の上に2列の頑丈な棒をうちこんだが、しっかりと地面に打ちこまれたその格好はまさに要塞の杭であった。…それから、先に船上で切断しておいた錨索を2列に並んだ杭と杭の間にならべてつぎつぎにつめこみ、その高さも頂上の高さにとどくくらいに積み重 ねた。(@.p83〜84)」このような住居のための囲い込み地のほかにも、ロビンソンは柵でもって土地を囲い込んで小麦畑にしたり、また別の囲い込み地では野生の山羊を育てたりしている。

 このように整然とした形で囲い込み地、即ちエンクロージャーを作って、土地を所有したり使用収益したりするというのは、当時のイングランド人の生活に見られる特徴であった。イギリスでは、他国とは比べ物にならないくらい社会全面を覆うような特有のエンクロージャーが行われていたのだ。17世紀から18世紀前半に行われていたエンクロージャーは、そのころ芽生えつつあった近代的農業経営に必要な農場を作るためのものであり、これは法の力も相俟って大規模で激しいものだった。そして貧民たちは土地を追われ、これは大きな社会問題となった。しかし、そういう破壊的な大規模エンクロージャーのほかに、その陰に隠れて、より建設的な流民や貧民たちを吸収していく小規模なエンクロージャーも多く作られていた。それは、農村工業のためのエンクロージャーであった。前述したように18世紀60年代からイギリスでは、産業革命が始まり、そのなかでランカシャー綿織物工業、続いてその隣りのヨークシャー西部・ウエストライディング地方の毛織物工業に工場制度が出現する。それに先行するこの時代に、これらの地方では、そういった農村工業のための小エンクロージャーがすでにできあがっていたのだ。

 では、そのような農村工業はどのような経路をたどって発展したのだろうか。14世紀半ばまでは農耕や牧畜は農村で、商業や手工業は都市で、という産業の地域的分化が当たり前であった。しかし、14世紀後半〜15世紀にかけて、急激に都市の手工業が農村地域へ流出しはじめる。手工業の立地が都市から農村地帯へと移動しはじめたのだ。こうした農村工業の発達はどんどん進行し、この『ロビンソン漂流記』が刊行されたころには極限に達していた。そうした背景のもとで各地の農村工業地域には無数の小エンクロージャーが作られ、そこで中産的生産者層が日々の営みを続けていた。

 デフォーは著作品『大英帝国周遊紀行』において、以下のように描写している。「見渡す限り広がっている夥しい数の小エンクロージャーは大きい物で7,6エイカー、小さい物で1,2エイカーであり、そういう小エンクロージャーの3,4つが1単位となってその中心には住居とそれに接続した仕事場がある。そして、その他のエンクロージャーのどれかでは、鶏や雌牛、運搬用の駄馬を飼ったり、わずかだが穀物を作ったり、いろんなことをやっている。」まさにこれが『ロビンソン漂流記』に見られる土地の囲い込みそのものである。

(*参考文献 @p83〜84、p106、p158〜159、p162〜163、Cp22〜41)

 

(2)ロビンソンの思考と行動に見られる現実的・合理的態度

@ 大麦の収穫

 ロビンソンは難破船の中から探し出したたくさんの道具や資材を使って生活の筋道を作り上げていく。そんな中、彼は大麦の穂が地面から生えていることに気づき、驚嘆し、感銘を受ける。それは気にも留めていなかった家畜用穀物の袋に残っていたものが、偶然に生えてきたのだ。また、大麦の茎の近くに稲の茎も見つける。そして彼は実りの季節がきたとき、その大麦の穂をていねいにつむ。「6月の下旬頃であったが、実りの季節がきたとき、私がその大麦の穂をていねいにつんだことはいうまでもない。1粒1粒大切にしまっておいたのも、もう一度それを全部まいて、パンを作るのに充分な収穫をやがてはあげたいと願ったからだった。(@.p110)」と。つまりここからわかることは、彼は食べてしまってそれっきりということはしなかったのだ。小エンクロージャーの1つに播いて、より多くの大麦を収穫しようとしたのだ。また、その収穫のなかから、播種のための部分を残して、さらにより多くの大麦を収穫する。「穀物の貯蔵はただ増えてゆくいっぽうで、納屋をもっと大きくする必要があることがはっきりしてきた。(@.p169)」こうして、大麦の量はむしろだんだん増加して、彼の生活は安定していく。

 

A           山羊の利用方法

 ロビンソンは船から持ち帰った鉄砲と火薬で、島で見かけた山羊を撃ち殺して食用にしようと考える。しかし、火薬の数にも限りがある。よって彼は落とし穴という罠を使って山羊を捕らえようとする。そして、みごと彼は子山羊3匹を捕まえた。しかし、その山羊も撃ち殺して食べてしまってそれっきりということはしない。彼は、もう1つのエンクロージャーの中で飼って殖やしつつ、その一部を食べるのだ。肉をシチューにする。しかし肉を食べるだけではない。皮をはいで日傘や帽子、衣服を作る。次々に生活必需品を作っていく。

 このように、ロビンソンは限りある資源の中で、自分の知識を頼りに生活していく。それは非常にうまく合理的な行動であった。彼は実行力も知識も充分に持っている。それには著者デフォーの驚くべき博識が反映されている。つまり、当時のイギリス中産者層の人々が実践的知識を多く持っている博識家であったことがわかる。

(*参考文献 @.p108〜110、p143〜144、p153〜159、p161、p197〜200、C.p41〜43)

 

(3)保険について

 ロビンソンが船から鉄砲と火薬を持ち帰り、それで山羊を撃ったりしているうちに、あるとき熱帯性の大雨が降ってくる。「…私は稲妻には少しも驚かなかったが、稲妻のように一閃私の頭をかすめたある一大事にはあわてふためいた。火薬!ただの一撃で私の全火薬は木っ端みじんに吹き飛んでしまうかもしれない。そう思うと、私はまったく生きた心持は  しなかった。(@.p85〜86)」そのあと、彼は嵐が静まると同時に「火薬を分散させるために袋や箱を一生懸命に作った。そして、少量ずつ小さな包みにいれたが、万一の場合、同時にすべての火薬が爆発しないようにと願ったからだった。(@.p86)」つまり彼は、一部が濡れても他は残ると考え、危険を分散し、保険をかけたのだ。

 著者デフォーは明らかにロビンソンに保険をかけさせた。これはデフォーの保険についての知識によるものである。当時のイギリスはその隣りのオランダ同様、保険業は相当の発達をとげていた。デフォーは若い頃の著書『An Essay upon Projects 1697』の中で「保険は  商人間の一種の契約である。その起源は商業に伴う偶然的性質のものであり、人間の不安な精神状態に起因したのである(B.p79〜82)」と論じている。

(*参考文献 @.p85〜86、B.p79〜82、C.p43〜44)

 

(4)ロビンソンの行動にみられる形式合理性

 ここで先に、形式合理性の概念について説明する。思考と行動の目的合理性とは、ある手段を選択する時、その手段の根拠となる目的が正確にとらえられていることをいう。その概念を発展させて、マックス・ウェーバーはさらにさまざまな事象を数理的にとらえていこうとする形式合理性の概念を構成させた。(C.p46〜47)

 

@時間の観念

 『ロビンソン漂流記』の中に以下のような部分がある。「…私がこのおそろしい孤島に足を踏み入れたのが、私の計算によれば9月の30日であった。…さっそく大きな柱にナイフで次の文句を頭文字できざみつけ、その柱で十字架を作って最初に上陸した地点にたてた。文句というのは『1659年9月30日、我ここに上陸す』というのであった。この四角な柱の側面に私は毎日ナイフで刻み目をつけ、7番目ごとにその刻み目をほかのものの2倍にした。そしてそのまた2倍の長さの刻み目を毎月の第1日目につけた。こんな具合にして週、月、年という時間を算定する、つまり暦をつける方法をさだめたのである。(@.p90)」このように、ロビンソンは今日は西暦何年何月何日なのかをきわめて形式合理的に数えて記録したのである。

 そして「9月30日――今日は思うだけでも胸のつまるような、上陸1周年の記念すべき日だった。柱の刻み目を計算して、自分が上陸してから365日たったことを知った。私はこの日を厳粛な断食日として守ることにした。聖別された特別な日して敬虔な礼拝にあてることにし、打ちくだかれた謙虚な心をもって地面にひれふし、神に罪を告白し、自分に対する神の裁きの正しさを認め、イエス・キリストをとおして恵みをたれたまわんことを祈った。p142〜143)」と、このように神に感謝するとしても形式合理的な基礎づけを行なった上で神に感謝していたのだ。

 

A損益計算について

 大麦や米の収穫がどんどん増加し、ロビンソンの生活が安定していくことは(2)の@のところで説明した。次に彼は、以下のような行動をとる。「今では大麦がおよそ20ブッシェル、米がほぼそれと同じか、少し多いくらいあった。もうほしいだけ食べてみようと思った。というのは、…1つには満1ヵ年にどれだけの量が あればよいかみたいと思ったからである。…だいたいにおいて、大麦と米の両方で40ブッシェルという量は、私が1年間に消費する量をはるかにうまわまることがわかった。そこでこの前にまいたのとちょうど同じくらい、毎年1回種をまくことにきめた。これだけあれば、パンその他を作るにしろ充分だろうという見込みであった。(@.p169)」と、穀物の自分の年間消費量と生産量とを照らし合わせて、1年に種をまく回数を決定することにしたのである。

 以上、2つに分けてロビンソンの行動に見られる形式合理性について述べてきたが、ロビンソンは孤島に漂着して生活がある程度落ち着いてきた時、自らの生活を数理的に考察し、整理した。それに基づいて、これから先の生活をよりよくするにはどうするべきかを決定しようとしていた。その行動はまさに形式的合理性が見られる。

(*参考文献 @.p11〜409、Ap7〜309、B.p79〜82、C.p22〜69)

 

 

 

4.結論

 以上、今までみてきたように、ロビンソンは孤島において様々な道具や資材を使って生活をする。それらを閉まっておくのでもなければ、すべてを消費してしまうわけでもない。そうした道具や資材、また孤島で見つけた山羊などの多くの資源について、将来の生活を考慮し、それに応じて合理的に道具と資材の使用量や各仕事への自分の労働時間を振り分ける。ロビンソンは近代の合理的産業経営を可能にするような有能な経営者であり、勤勉な労働者であった。そのモデルとなったのが17世紀末〜18世紀前半のイギリスにおいて広く農村地域に住み、様々な工業生産、特に毛織物工業を営んでいた中流階級の生産者たちであった。

では、デフォーはなぜ彼らを社会的モデルとして『ロビンソン漂流記』を書いたのだろうか。『ロビンソン漂流記』の中に、ロビンソンが父親に訓戒を受けているところがある。商人であった父が、ロビンソンの考えをはっきりみぬいて、実にいい忠告を与えてくれたというのだ。父は、「運を賭けて外国に行き、尋常でない仕事をやって有名になろうという連中は、どん底生活にあえいでいるような連中か、ひどく野心的な金と運に恵まれた連中かそのどちらかで、お前などが手の届くことでもないし、そこまで身分を下げてやるまでもないことだ。お前の身分は中くらいで、いわば下層社会の上の部にいる」と言い、また「自分の長年の経験によるとこの中くらいの身分ほどいい身分はないし、人間の幸福にも一番ぴったりあっている」と教え諭す。そして、「中くらいの身分の者はほとんど災難をうけることはないし、人生の浮沈に苦しめられることもない、このちょうど頃合いの暮しには平和と豊かさがあり、さまざまな美徳、楽しみがあるのだ」と、中産階級の生活がどれほど満たされたものであるのかを教え聞かせている。

 また、ロビンソン自身が孤島でこの父の忠告を思い出し、今までの自分の行ないを悔い改めるところがある。「神のおかげで幸福に安らかに生きていける身分に生まれたはずなのに、神の思召しも聞こうとせず、またその祝福をいくら父親が言って聞かせても耳を傾けようとはしなかった、だから神の裁きがくだったのだ、今や自分を助けてくれる者も話を聞いてくれる者もいない」と深い後悔の念に悩まされたのだ。これは、著者デフォーが波乱万丈の人生経験から得た結論であった。デフォーは自らの人生においてさまざまな経験をし、それを通してイギリス国民の理想人物像をこころに持つようになった。そして、漂流記の中でロビンソンという1人の男をモデルとして、彼が考えるイギリス人の理想的な将来像を描き上げたのだ。よって、孤島におけるロビンソンの生活には中産者層の人々の優れた面が多く描かれている。17世紀末にイギリスの国民経済がにぎやかになっていく、フランスや他の文化諸領域もそれに歩調を合わせる、そうした動きは、中産者層の原動力あってこそのものであった。

 

 

参考文献: @デフォー作、平井正穂訳 岩波文庫 1967年第一刷発行

       『ロビンソン・クルーソー(上)』

      Aデフォー作、安部知二訳 岩波少年文庫 1952年第一刷発行

       『ロビンソン・クルーソー』

      Bデフォー作、岩崎泰男訳 同志社大学出版部 1994年

       『An Essay upon Projects 1697  17世紀末の英国事情

        ――デフォーの社会改善計画――』

      C大塚久雄著 岩波新書 1977年 『社会科学における人間』

      D天川潤次郎著 未来社 1966年

       『デフォー研究 資本主義経済思想の一源流』

      E関口尚志、梅津順一、道重一郎著 日本経済評論社 1999

       『中産層文化と近代 ダニエル・デフォーの世界から』